日本のあゆみ
命がけの出産から、安全に出産できる国へ
1960年代、日本は、戦後の混乱からめざましい復興を成し遂げて、いわゆる「高度経済成長の時代」を迎えました。
この頃の日本で、著しく好転したのは、経済の分野だけではありません。
グラフをご覧いただくと一目瞭然ですが、妊産婦死亡率と乳児死亡率が目を見張るスピードで低下しています。それでも他の先進国に比べると1960年当時はまだ高い率を示していました。
戦後の日本には、多くの男性が戦地から復員したことで、ベビーブームが起きました。しかし、敗戦でさらに食糧難となった日本は増加する人口を支えきれず、戦中の「産めよ増やせよ」の政策から一転して、人口抑制の必要に迫られました。妊娠しても子どもを育てられない女性は後を絶たず、その結果非合法による安全でない中絶が蔓延し、数多くの女性が命を落としました。
そこで1948年に、「母性保護」を目的のひとつにうたった優生保護法(*)が制定され、条件付きで中絶が合法化されました。1952年には家族計画の推進が閣議決定されました。さらに母子手帳の普及や母子保健法の制定(1965年)などによって、妊産婦死亡は急速に減少しました。
世界的に見ても、戦後の日本ほど短期間に妊産婦と乳児の死亡率を削減した国は、そう多くありません。2017年時点では日本の乳児死亡率も、妊産婦死亡率も世界でもっとも少ない国のひとつに数えられています。
* 1996年に一部改訂が行われた。その結果、障がい者を差別する「優生」に関する条文が削除され、法律名も母体保護法に変更された。
安全にお産ができる国に。日本の母子保健を支えたもの
日本の母子保健を支えたのは、誰であろう、地域で活動する保健師さんや助産師たちでした。
戦後まもなくの日本では、お産をするための施設はまだ少なく、出産はもっぱら自宅で、開業の助産師の介助によって行われていました。とくに農村部で安全なお産ができる施設が少なく、また助産師さえ不在の村が多かったようです。
そこで、民間団体や自治体が「母子健康センター」を開設、助産師や保健師さんたちがつどって、妊娠中および産後の保健指導を積極的に展開しました。そうした助産師さんや保健師さん、加えて、子育て経験があり人望のあるお母さんが選ばれて、ボランティアとして母子保健活動に携わった例もあるそうです。ボランティアのお母さんたちが、妊婦さんや生まれたばかりの赤ちゃんの家を何度も訪問して、保健指導の質を底上げしてくれたのです。
戦後日本のめざましい母子保健の発達を支えたのは、こうして関わった人たちの、「母親を守るんだ!」という、強い使命感でした。地域の住民が、自分たちの地域のために力を合わせ、民間で母子保健を広めていった成果が、今日の日本の母子保健の礎をつくりました。
戦後の経験を生かして、日本ができること
めざましい母子保健の発展は、「戦災による焼け野原から急速に復興を成し遂げたアジアの国」として、日本が国際的に注目を浴びるひとつのきっかけとなりました。国際社会は、日本の経験を途上国への支援に活かすよう求め、日本もそれに応えました。これが今日の国際協力活動の出発点となっています。
なぜ今、妊娠も出産も安全にできるようになった日本で、ホワイトリボン運動に取り組む必要があるのか?「日本だからこそ、できることがある」というのが、その答えです。
民間でじわじわと母子保健が広まり、ついには母子保健大国となった日本。一人ひとりの人間と家族を大切にしながら、母子保健を推進していこうという日本の姿勢は、国際協力の場において、現地の国々でも住民の支持を得て、今も広がり発展し続けています。
ホワイトリボン運動は、日本に生きる、一人ひとりのみなさまの、「草の根」のご参加をお待ちしています。